発願の動機
岩手県 観音寺
サガレン(南樺太)北緯50度線直下の久里兵舎で、幹部候補生として特別訓練を受けて居り、 いよいよ卒業式を間近にした或る日午前三時頃、突如非常呼集があり、敵と味方と二分され遭遇演習があり、 演習が漸く終って松林の中で小休止をして居ったその時である。我が部隊の三角兵舎はソ連の爆撃機によって 一瞬にして潰滅した。それは昭和20年8月9日午前5時であった。兵舎内に置いた装具の中には、 約14年間原田祖岳老師に随侍した記念に贈呈された絡子と一連の数珠とがあった。これが小生の身代り になったのである。それ以来、連日襲来するソ連(ソビエト連邦)の爆撃を避けながら、毎日場所を移動し、 タコ壷を掘って後退した。 遂に8月15日の終戦となり、吾々は忽ち捕虜となり武装解除となった。毎日重労働の生活が続き 「お前達はよく働いたから日本へ返してやる」と言われて有頂天になって居たが、11月16日に乗船した所、 5日目にナホトカ港で夜10時に天地も凍る砂浜に下され、10時間以上走り廻って凍死をまぬがれた。 その翌日から生と死との間をさまようシベリヤ生活が始まった。(シベリア抑留)
神佛の加護により昭和22年1月5日、舞鶴港に復員し、直ちに福井県小浜市発心寺
専門僧堂の寒修行に参加したが、甚だしき栄養失調なることを知り、寒修行が終るや否や自坊の山梨県本栖湖畔
の江岸寺へ帰って、専ら身体の回復を図った。自坊で療養期間中徹底的に考えたことは、天下の鬼僧堂に於て
命とりの大接心会に参加すること110回、斯かる人間の世界平和に寄与出来ることは、国際参禅道場を創建して、
世界人類に接心をさせて、佛陀の心を甦えさせるより他に平和の道は絶対に無い、と言う結論に達したのである。
此処に観音寺創建の菩提心が勃々と沸き出たのである。
シベリア抑留・・・第二次世界大戦の終戦後、武装解除され投降した日本軍捕虜らが、
ソ連によっておもにシベリアなどに労働力として移送隔離され、長期にわたる抑留生活と奴隷的強制労働により多数
の人的被害を生じたことに対する、日本側の呼称。厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要
させられたことにより、多くの抑留者が死亡した。
天下の鬼僧堂・・・伴鉄牛老師が長らく修行された福井県小浜市の発心寺専門僧堂のこと。修行の厳しさで有名であった。
ラサール神父との出通い
昭和20年8月6日広島で原爆を受けたラサール神父は、世界人類は原爆は勿論一切の軍備を撤廃すべきだと直感し、 米英仏ソは勿論、世界各国を2回遊説したがこれに耳を傾ける者が無かった。
此処に於て神父は、日夜世界平和は如何にしてもたらすべきものかと自問自答して、
解決策は只一つあることを知った。それは世界二大宗教のカトリック教の瞑想と佛教の坐禅とが一如となり、世界人類が
斯道を実践する時に到って始めて地上に平和が来ると、ラサール神父は自ら愛宮真備(えのみやまきび)として日本に帰化し、
倶に原田祖岳老師其の他の師家の下で50回以上接心会に参禅した道人として、小生と共に最も緊密な連繋を取り、
世界平和を撹乱する鬼畜共の魂を転迷開悟せしめて、佛心を惹起せしむることに、神父と鉄牛の意見と覚悟が一致した。
一生行動を共にすると約束したが、信者がこれを許さなかった。
詮方なく愛宮神父は広島中央に瞑想堂を建て、鉄牛は原田祖岳老師の厳命によって東照寺参禅道場を復興した。
されど両師共初志貫徹の為、愛宮神父は西独で1億円の募金を5年掛りで成功し、
奥多摩の桧原村本宿に秋川神冥窟道場を建設し、鉄牛は岩手県に観音寺国際参禅道場を創建することになった。
世界平和記念聖堂・・・広島市内にあった幟町天主公教会が原子爆弾投下に
よって倒壊・焼失し、自らも被爆したドイツ人主任司祭フーゴ・ラッサールは、この地の原爆犠牲者を弔うだけでなく、全世界の友情と世界平和を
祈念するための聖堂をあらたに建設することを思い立った。このラッサール神父の発願は当時のローマ教皇ピオ12世の支持を得たあと、
カトリック信者をはじめとする真に恒久平和を願う人々の共感をも呼び起こし、それが世界各地から届けられる多大な浄財や寄贈品の形となって、
世界平和記念聖堂は建設された。2006年に重要文化財に指定されている。
観音参禅道場建立趣意書
十方信心施主殿 広大無辺なる哉宇宙! 何ぞ微小なる哉我が人間像! 物質文明の行き着く所は水素爆弾の戦争であると思う。2500年以前に釈尊
はこの人間の苦業を解脱して即身成佛せられたのである。この釈尊が宇宙の真理を徹見せられたところに於て、
地上に始めて精神文化の花を開いたのである。真に人間が幸福になる道-解脱道を釈尊は自ら体験し、
人類にこの道あることを教示せられたのである。 昭和46年4月8日 岩手県紫波郡矢巾町広宮沢 観音寺開山 伴鉄牛 合掌 |
上記の趣意書を3000枚印刷しこれを全国信徒に郵送すると共に、私は盛岡参禅会員と 共に勧募に全能力を傾けて、遂に目標額の浄財を集め、禅堂及び庫裡を完成し、7月21日から5日間禅堂完成記念大接心会を断行した。 参禅者は75名参加して大盛会であった。
禅堂・・・坐禅をするところ。
庫裡・・・お寺の台所のこと。
居士寮・大姉寮・・・参禅者が寝泊りするところ。
東照寺・・・原田老師が開山され、当時、伴老師が住職をしていた。
環境絶佳・・・当時、観音寺の周囲は森林に囲まれた「深山幽谷(しんざんゆうこく)」の地であった。
宗祖道元は人里遠く離れた奥深い山や、山奥深くにある静かな谷に寺を建立することを好まれた。
本尊平和観音勧請の因縁
戦争終焉と同時に、戦死者の諸精霊をまつり、且つ、世界の平和、国土の安泰、 戦争が再び起らないことを祈願して、合掌観音像を彫刻することを発願した一佛師があった。 その佛師は高村光雲師の高弟「佐久間白雲師」であった。戦争中岩手県一関市(いちのせきし)に疏開して居ったので、 一関の有志より資金を仰ぎ、一方、一関林野局に懇望して須川岳より一大赤桂を入手し、土地の青年団員の 協力により之を伐採し、深山より搬出して貰い、材木の乾燥するのを待って愈々彫刻に取り掛かる。 斎戒沐浴し、一刀三礼して、5年の歳月を費して、漸く一丈六尺(約4.85m)の平和観音像が出来上った。
一方、岩手県三陸海岸山田町に平林ハルエという婦人があった。
明治の初めに生まれ、幼少の頃より世の為人の為に成ろうと思い、先ず第一に看護婦の資格を取り、
岩手病院に勤務して居ったが、単純な日常生活に飽き足らず、山田町に帰ったところ明治23年の
三陸海岸の大津波が襲来した時、三十三身の観音菩薩となって活機輪を転じ、傷病者を救済して実に
偉大なる功績を現したので、時の岩手県知事国分謙吉殿より特別表彰せられた次第であった。
その後、平林さんは鍼灸の資格を取り、指圧の免状をとり、昼夜兼行施療し、山田町はその治療を求める者
が山田町に民宿して、町内はお祭り騒ぎの態であった。70年間に何万人という患者を救った平林さんも、
80歳の坂を越して身体不如意になるや、元来の観音信仰の一路を進み、佐久間白雲師彫刻の平和観音像を
買い取って、自ら出家して観音様の忠実なる使者として余生を送る予定で、私財を投じ国分知事の援助を得て、
山田町の桜山仮御堂に奉安し給仕して居った。
平林さんも90歳を過ぎて身体不如意になり、平和観音を山田町に安置した儘、盛岡市で家庭生活をして居る娘の
平林カヨ家に身柄を引き取られたのである。
東京に住む平林鉄宗氏の懇請によって鉄牛は一大決心した。母堂ハルエさんが盛岡に平和観音様を
お遷ししない間は死に切れないと言うことを小生に伝え来て、是非母堂の願望を叶えてやって貰い
たいと平林氏が願い出て来たので、直ちに小生は承諾して、昭和47年観音寺に仮本堂を作って
平和観音大菩薩を勧請したのである。
三陸海岸の大津波・・・明治三陸地震(明治三陸大津波)のことと推察される。
1896年に三陸沖を震源として起こった巨大地震であり、地震に伴って観測史上最高の海抜38.2mを記録する大津波が発生し、
死者・行方不明者がのべ2万1959人に及ぶなど、甚大な被害をもたらした地震として知られる。
佐久間白雲・・・東北唯一の京仏師で、弟子に富樫実などがいる。明峰山石応禅寺の釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩も白雲の作品。
平和観音本殿並観音寺本堂建築
一丈六尺(約4.85m)の平和観音大菩薩は、昭和27年5月曹洞宗管長渡辺玄宗禅師によって開眼供養を厳修せられ、
暫く山田町桜山仮本堂にまつられてあったが、平林ハルエさんの切なる願いによって、観音寺に勧請した以上は、
一日も早く御本殿建築に取り掛らなければならないと意を決し、昭和47年5月より本堂建立資金勧募を始めたのである。
先ず平和観音奉讃会をつくり会長には岩手県知事中村直殿を推戴し、副会長には当時の盛岡市長工藤巌氏を推挙し、
本堂建築費勧募に取り掛ったのである。建坪226坪、本殿及本堂の高さは
33尺(約10m)の鉄骨建築での完成を目指す。昭和48年4月8日に千本づき法要で地鎮祭を執行し同年10月には建築を完了し、
その後一ヶ年を法要の準備期間とし、昭和49年10月には岩本管長猊下を拝請して、大々的に落慶法要を厳修することに決定した。
渡辺玄宗禅師(1869年~1963年)・・・總持寺の独住17世貫首。1869年に新潟県三島郡日吉村の農家の次男に生まれる。
1892年長野県佐久市泉龍寺の渡邊俊龍に就いて出家する。光厳寺、比叡山、永平寺、円覚寺などで修行し、1902年報恩寺の住職になる。
1927年に大乗寺に入って復興させ、永平寺副監院、同後堂を歴任。
1935年に興禅寺の開山になり、1943年に總持寺西堂となり、翌1944年に独住17世貫首になる。
中村直(1912年~1996年)・・・3期12年間岩手県知事を務める。知事在任中は三陸鉄道を鉄道としては全国で初の第三セクターにしている。
工藤巌(1921年~1998年)・・・3期盛岡市長を務め、文教政策に精通。貧しいからこそ教育の充実させるとの理想があったと言われる。
本堂落慶式
昭和49年10月4日。晴(友引)3時起床して鉄牛は独りで朝課をやり、4時振鈴、大衆は内外掃除終っていよいよ落慶式の諸準備、 7時朝食。随喜寺院各々配役の部署につく。8時頃から信徒続々到着し受付係り大忙殺。
午前9時、10発のノロシが北上平野に鳴り響く。両班及び数百名の信者は高さ10メートル、巾6メートルの杉枝で作った大歓迎門へ
「奉迎。曹洞宗管長勅賜正応天真禅師猊下」と墨根跟鮮やかに書かれた歓迎門をくぐり山門頭に御到着。
やがて岩本管長猊下が管長室に御入御、金屏風前の大座褥上にお坐りになり、各役職の御挨拶を受け終るや否や、縁側の椅子に掛けられ、
桜湯は縁側に持って来い!宮前和尚と鉄牛和尚とは禅師の両側に腰掛けろ!と。一望千里の豊穣の田圃を見よ!
福田さえ耕やせば無数の信者が出来る。鉄牛和尚!よく此処までやり遂げた。これからは檀家つくりだが。
取り敢えず千軒分の墓地を作れ!と言う尊い御言葉を賜った。
岩本勝俊禅師(1891年~ 1979年)・・・總持寺の独住19世貫首。
佛舎利塔建立資金勧募趣意書
1400年の昔、我が国の聖徳太子が17条憲法を制定せられ、その第2条に日く 昭和51年5月3日 憲法記念日 |
黒田武志老師(1938年~ 2004年)・・・栃木県大田原市に生まれ、駒澤大学へ進学され、総持寺で修行される。
1965年からタイ国のワットパクナムで長年修行され、帰国後はタイ国からの留学僧を受け入れるなど、タイ国と日本、領国の交流に多大なるご尽力される。
そして、友好の証として、タイ王室から日本へ仏舎利が献納された際、白純老師や武志の御意向もあり、観音寺に奉納されることになった。
黒田白純老師(〇年~ 1979年)・・・白純老師は幼少時、お母様が当時の光真寺住職雲巖愚白老師と再婚され、
その後愚白老師の弟子となり、光真寺を引き継がれる。光真寺は昭和の初期に失火するも、社会事業を積極的に行われ、
本堂などを再建、中興の祖となる。1945年頃から光真寺を俊雄老師に任せ、曹洞宗大本山総持寺の復興に力を注がれ、総持寺の顧問を長く務められる。
佛舎利塔建立基金勧募寒中托鉢
昭和52年1月5日より2月3日まで、寒中30日間佛舎利塔建立基金勧募寒修行托鉢を断行した。
<ある日の修行例>
1月5日(水曜)晴。零下15度。
午前5時、振鈴(目覚ましのこと)。
暁天坐(朝の坐禅のこと)。
朝課諷経(朝の読経のこと)。
午前7時、行鉢(朝食のこと。お粥を食べる)。
午前8時、托鉢隊出発。托鉢隊のメンバーは伴鉄牛を含め12名。
午前8時半より12時まで托鉢。「佛舎利塔建立募金托鉢」の旗幟を先頭に立て盛岡市内托鉢。
午前12時過ぎより毎日信者宅にて点心諷経(昼の読経のこと)。
終って点心供養を受ける(昼食のこと。応量器を使って食べる)。
午後2時より無門関提唱(勉強会のこと。講義を聞く。)。
午後4時、観音寺へ帰る。
午後4時半、晩課(夕方の読経のこと)。内外掃除。
午後6時半、薬石(夕食のこと。応量器を使って食べる)。
午後7時より夜坐(夜の坐禅のこと)。
終って入浴(昼間の托鉢の汚れを落とす)。
九時開枕(寝ること)。
1月7日は、岩手放送が托鉢の様子を実況放映。
1月20日は、NHKニュースで托鉢の様子を放映。
2月4日は、11時より寒修行満散大施餓鬼会。その夜は、慰労会。
托鉢(たくはつ)・・・僧が修行のため、応量器を持って、家の前に立ち、経文を唱えて米や金銭の喜捨を受けて周ること。
応量器(おうりょうき)・・・入れ子状に重ねられた6枚の容器からなる黒塗りの漆器のこと。一番大きな器に粥を受け、
以下、それぞれ定められた器に汁、漬物、副菜を受ける。托鉢の際に布施を受ける器にも用いられる。
七堂伽藍完備なる
昭和46年4月8日に、岩手県紫波郡矢巾町広宮沢の原野を開拓して、2575坪の仙境に、 開基佐々木継之介氏より観音寺の境内地として寄進をえて、以来満10年間に、坐禅堂・本堂・管長室・方丈 ・単頭寮・監寺寮・典座寮・居士寮・大姉寮・信徒寮を完成し、最後に佛舎利塔の落慶を見るに至った。
憶えば大正9年10歳で出家して今日まで62年、始めの10年は岩手県一の厳格な師匠に養育せられ、 20歳より20年間迂余曲折ありしも、小浜市発心寺僧堂の原田祖岳老師に随身し、昭和15年以来原田老師の厳命に従い、 在家の青少年のみを参禅させる道場―東照寺参禅道場をつくり、昭和18年6月30日東京都知事の認証を得た。 東条内閣の時代に新寺建立が認可されたのは、日本で東照寺只一箇寺である。この新寺建立には1年半かかり、 その間の毎日の睡眠時間は1時間半であった。
出家以来毎日3時間睡眠、20時間佛作佛行の労働を以て育て上げられたものにとって、
観音寺の創建にへこたれる筈がない。遂に国際参禅道場創建せられたり。
現在では不適切な表現も一部散見されますが、 明治に生れ、戦前・戦中・戦後と生き抜かれた 伴老師の熱き想いを表現したものであり、 昭和期当時の社会状況などを踏まえてお読み頂きますよう、 よろしくお願い申し上げます。 |
引用&一部抜粋 平成9年4月30日 第三版 発行 |